清少納言と紫式部、人物像考察
0.まえおき
この記事は、先日書いた「超主観的平安時代中期解説」の実質的な続編、ないしは掘り下げとなります。
呉市の家庭教師の白井の本業では、ここまで深いことはしないのですが、大学以降の学びという意味で、たまにこういう考察もしています。
ちなみに、以下の内容の概要ですが、平安中期の有名作家である清少納言と紫式部の人物像についてです。
両者はよく、「清少納言と紫式部」あるいは「紫式部と清少納言」というように、並び称されることが多いのですが、実際には結構ベクトルが異なっています。
一言でいえば、清少納言は「ミーハー」、紫式部は「玄人」なのですが、掘り下げると以下のようになるのではないか、という私の考えです。
1.人間性の原因と基本的なスタンス
本論に入る前に「人間性、言い換えると性格はどうやって決まるのか」についてはっきりさせておきたい。
最も、これについては多くの議論があるだろうから、あくまで仮説だということをご了承願いたい。
私の重視しているのは「常識」である。実際、清少納言や紫式部がどういう人間だったのかは、本人にしかわからないし、場合によっては本人にも分らないことがあると思う。他者を解釈する、ということはどうしても外部的でわかりやすい基準(パターン)にあてはめるということにならざるを得ない。そうしてできた他者の像が、実際現実に存在しているものと一致している保証は残念ながらない。
そうした条件下で、より良い解釈というのは、より常識的で、共感の持てるものでなくてはならない。
もちろん、奇をてらうような解釈が、間違いだということはだれにもできない。また、「個性」とか「らしさ」というものを全く除去しようとは思っていない。しかし、「私の好み」として基本的には常識的でありつつ、その中で多少「個性」を主張するくらいがちょうどよいのではないか、と思っている。
さて、そのうえで人間性の決定要因は「先天的なもの」と「後天的なもの」があると考える。先天的なもの、とは要するに遺伝環境であり、後天的なものというのは要するに環境である。
したがって、先天的なものについては、先祖をたどるくらいしかできないので、主に後天的なものについての考察が中心となるだろう。
2.清少納言のスタイル
枕草子は、基本的に事実が書かれている。栄花物語のような創作的なものは入っていない。これを見て、清少納言は事実に忠実な客観的な人間だということはできる。しかし、一方で中宮定子(主家)について、都合の悪いことはほとんど(まったくではない)書いていないのは重要である。
事実の切り取りに、清少納言の取捨選択が入り、読者はまるで中関白家の没落など実はなかったのではないか、という認識を抱かせる(尤も、読者がそう思う。というだけで清少納言が虚偽の記載をしているわけではない、という点は留意)。
この事実を基に、作者像を想像してみる。
2.1「現実」と「虚構」を区別している。定義は、現実とは、実際にこの世界で物理的に起こったことであり、虚構というのはそうではないもの、というわかりやすい分類。また、そこから派生して現実は虚構に勝る、という思想もあったか。
※当時、「物語」は虚構であることから、最も格の低い文学とされていた。
cf 漢詩>和歌>実録・日記>物語
2.2しかしながら「現実」の描写の仕方によって、相手の中に形成されるイメージに違いが生じることを知っている。そして、その現実を可能な限り美しく、良いものと受け取れるような描写を好み、またそれができるだけの筆力を持っている。
また、次の2点のうち、いずれかまたは両方の性質を有している。
2.3中宮定子(<中関白家)に対して、忠誠心又は個人的な好意のいずれかまたは両方を有している。
2.4同じ現実を見るならば、なるべく良い面を見ようというポジティブ精神を有している。
2.4については、清少納言集または友人(和泉式部や赤染衛門)とのやりとりでは、自身の老いや衰えを嘆く歌が多いことから、必ずしも(常には)正当化できない。仕事とプライベートを分ける(仕事は完璧にやり遂げたい)という性格だった可能性も高い。
このうち、単に量的に優れているという次元を超えて、画期的(清少納言の個性が出ている)といえるのは、2.2ではないか。つまり、枕草子のような一部の現実に焦点を当てて、明るい雰囲気を作れるということは、そうではない書き方もできる(区別できる)ということでもある。見方次第で、現実に対する印象や取り組む姿勢すら変えうるという可能性(ポテンシャル)に気づいていた、というのが清少納言の最大の特徴だと考えている。
3.紫式部の姿勢(源氏物語と清少納言批判を基に)
一方で、紫式部も優れた現実認識をしている。
源氏物語の中で、光源氏のセリフを借りて、「物語こそ真の歴史を描ける」という趣旨の発言をしている。これは、当時の物語の位置づけとその理由(前述)からしても、画期的だったと思う。
つまり、紫式部の中にも「現実」と「虚構」の区別が存在するが、その定義は清少納言のそれとは質的に(根本にある思想から)異なっているのである。具体的には、紫式部にとっての「現実」とは、客観的物理的に起こった事象に加えて、なぜそのようなことが起こったのかという因果関係、人間の行動原理ないし思想(文脈)が含まれる。そして、そうした「現実」描写にはどうしても観察者の主観が含まれ、物語読者には単に因果関係の認識に加えて、作者の思想(テーマ)も認識することを求める。
源氏物語は、確かに客観的物理的にあったという意味での「事実」ではないが、観点を変えてこれを「事実」だと認識するならば、上記のような考えがなくてはならない。
さらに派生して考えるなら、このような「事実認識の多様性」ということを作者紫式部は認識できたのかもしれない。考えてみれば、紫式部集は「世」「身」そして「心」など抽象的な歌が散見される。このことは、少なくとも現実を支配する原理について積極的に分析しようという態度とみる。その中で紫式部は物語という活路を得て、「世」や「身」にしばられない自由な「心」を発見する。「自由」というのは、選択可能性と言い換えることができるから、紫式部がその思索の中で「事実認識の多様性」に気づいた、と考えるのは決して無理のない解釈である。
他方で、「虚構」とは何かは、清少納言批判の中にヒントがある。「人より違ってやろうと思い好んでいる人は、必ず見劣りする」「なんということはない時も、もののあはれに進み、趣き深いことも見逃さない間に、自然とそうなってはならないような不誠実な態度になってしまうのでしょう」と述べている。
このことの背景に、紫式部の「事実と虚構」認識があると仮定しよう。確かに、主家の違いからくる政治的な対立もあるのだろうが、しかし誰かを批判する理屈に、自分自身にとってなじみの深い(実感を伴う)ものとそうでないものがあるならば、前者を取るのではなかろうか。また、私の好みとして紫式部が自分が真実だと信じていない思想を基に他者を批判するような人間ではない、ということもある。
さて、前記の紫式部の記述の中で「人」というフレーズが出ているが、その周辺の文章を逆にすると「人と違わないでいようとする人」であればよい、ということになる。ここには、「出しゃばる」ことへの戒めもあるが、この一連の清少納言批判が枕草子批判でもあるとするなら、枕草子を記述する姿勢にも批判が及んでいるとみるべきである。だとすれば、先ほどの「人と違わない」文章(=紫式部にとってのよい文章、また執筆姿勢)と対比することになる。私の考えとして、ここでいうよい文章とは、人に共感を与える文章だと考える。ここまでなら人々の共感を得られる、というラインがあり、それを超えてしまったら不誠実だ、ということである。
したがって、紫式部の言う「虚構」とは、人々に共感を得られない独りよがりな事実認識、ということになる。
4.比較
清少納言と紫式部は、いずれも抜きんでた事実認識を持っているが、よりメタ的な視点を持っているのは紫式部だということが分かった。
二人とも、客観的物理的な事実について様々な描写方法があることを知っているところまでは共通する。また、かかる事実描写に関して、ここまでなら人々の共感を得られるという一線を心得てもいる。しかし、紫式部はそれらに加えて、物事を動かす力(因果ないし文脈)も事実を構成する重要な要素だと認識している点が際立っている。むろん、因果というのはだれもが認識することではあり、人々が紫式部の考えに共感して「ああそうだったのか」と思うことはある。しかし、その因果を具体的に自覚して、しかもそれを人々に共感を得られるように表現できる、というのはだれでもできることではない。
また、憶測の域を出ないが、その因果ないし文脈というものを「世」とみなすなら、それから自由な「心」は、そうした因果ないし文脈を相対化できる、と気づいているのも素晴らしい発見である。
しかし、清少納言にも独自の良さがある。それは、「美しいもの」「よいもの」を後世に残そうという態度である。紫式部は、そうした取捨選択を「独りよがり」と切り捨てているものの、清少納言枕草子は人々の共感を得られたからこそ、現代に残っているのだと思っている。つまり、紫式部の「独りよがりは良くない」という大前提は正しくても、「清少納言は独りよがりである」という小前提は実は当たっていないのではないか。
尤もそれが分かったうえで、あえて清少納言を否定する理由は紫式部にはある。主家の違いからくる政治的対立およびその残滓だが、それは本題からずれるのでこのあたりで一区切りとしよう。
5.紫式部の人間性はなぜ・どうやって構築されたのか
清少納言は、途中までは周囲の人間にとてもよく恵まれた。例えば、父親は官位には恵まれなかったもののユーモアのある明るい人物だったそうで、今昔物語や宇治拾遺物語には冠が脱げ落ち際、すぐにかぶろうとせず長々と弁解した、というエピソードが残っている。それ以上の事実は確認できないが、一部の変わった家では女子にも漢文を教える、ということは行われていた。例えば、中関白家の正妻である高階貴子は、女性ながらに漢籍の知識に長けていた。なぜならその父親である高階成忠は娘にも漢籍を教えていたからである。その娘が出世したのだから、漢籍の知識は女性にとってもプラスになる、という発想の転換が起こりつつあったと想像する。少なくとも、枕草子の中には父親に嘆かれたという記述はない。
そして、上司にも恵まれた。中宮定子は、漢籍の教養もあったし、部下の才能を発揮させる才能を有していた。香炉峰の雪のエピソードは、清少納言の才能もあるが、相方が中宮定子でなければ、ありえなかっただろう。また、初出仕のエピソードの中で、清少納言が先輩女房に叱咤激励されている場面もあって、同僚にも恵まれていることが分かる。
他方で、紫式部は環境に恵まれなかった。父親も、漢籍ができるということを喜ぶというよりはむしろ嘆いていたし、時代的に中関白家の没落期というのもよくなかった。漢籍の知識を悪く言えばひけらかしていた中関白家が没落したことで、漢籍の知識、ましてや女性がそれに精通していることにマイナスのイメージが付きまとった。清少納言批判の中で紫式部は「才がりぬる人」を批判しているが、それは自分自身の問題でもあったのである。さらに、同僚も冷たく、主人である彰子は内向的な性格だったのも災いした。
このように、逆風が吹き荒れる中で漢籍の知識を有するということは、マイナスだという世論の中に彼女はいた。
しかし、一方で自身が学者の家系の娘だという自負もあっただろう。
さらに、漢籍自体の魅力にも当然気づいていただろうし、漢籍(古典)を勉強すること自体は、悪いどころか、普遍的な視点を磨く体験である。そうした、正しいと信じていることを周りの人から否定されるというのは、それだけで孤独感を募らせる。
だが、紫式部は単に歪んでダメになったのではない。こうした漢籍を中心とする矛盾した感情が、彼女を苦悩させ、その結果としてメタ的な思考を手に入れた。また、鬱屈した気分を、物語の執筆活動という形で昇華できることを知ったのである。さらに、宮仕えの中で自分を守りつつ、周りと接するマイルール(おいらけ)のようなものも見出した。
それだけに、清少納言が「自然と」「周りの援助を受けて」「楽しそうに」「何の苦労もなく」自身の教養を披露できたのは、目の毒だったに違いないが。
総括:時代が2人の才女の精神を揺さぶったということ
この記事自体は、リニューアル前に書いたものなのですが、個人的には結構気に入っているので再掲載してみました。
それにしても、書いていて思ったのですが、こうした考察系の記事は、考察対象の精神状況のほか、私自身(呉市の家庭教師の白井)の考え方も映しているのかなと思いました。
私は、ほかの記事で丸山眞男についても書いているのですが、彼のよく用いる分析パターンとして、「思惟形式」というものがあります。
考えてみれば、私の分析も丸山的なのかもしれません。
また、このついでに書くと、ある人物の人物像というのは、時代性というものを排除して、平面的にとらえることはできないのだな、と思いました。
清少納言と紫式部は、一見安定しているように見える平安時代中期において、主家の運命に翻弄された人でした。
一方は、我が世の春のような状態からスタートして、その後どん底を経験し、他方はネガティブに沈んでいた状態から、未来を切り拓いていきました。
それには、本人の努力や性格もありますが、他方で抗えない時代の勢いというものもあり、考えさせられます。
このように、呉市の家庭教師の白井では、たまにこういう効率重視とは言えない記事を書きますが、こういう脱線もたまにはいいのかなと思っています。