国語の「勉強法」を整理する
はじめに
国語(現代文)では、いろいろな勉強法があり、またその中にはとても優れているものもあると思っています。
では、なぜここで「国語の勉強法」について、私が書くのかといえば、それは新しく斬新なものを提案するよりも、すでにある様々な勉強法についてある種の交通整理をすることが重要だと思ったからです。
形のないものについて分類するには、座標軸が有効です。
だから、ここでも2つの座標軸を導入しようと思います。
1つは、「形式」を重視する学び方であるか、「実質」を重視する学び方であるか、という形式─実質の対立を用意しましょう。
もう1つは、「読み」を重視する学び方であるか、「書き」を重視する学び方であるか、という読み─書きの対立を用意しましょう。
これを図にすると、平面に4区分された象限が出来上がります。
※上記4つの象限は、あくまで便宜的なものです。
4分類の紹介
そのうえで、上記4つの象限について各々具体例を考えてみましょう。
まず、(第1象限)ですが、これは上の図によると「実質重視」かつ「書き重視」の学び方です。
この具体例としては、「評論・小説・詩などを読んで、それについての意見や感想を述べあって、よりよい答えを目指す」というものが考えられます。
また、「自分でテーマを決めて、作文や小論文を書いてみて、それを批評しあう」というものも考えられるでしょう。
次に、(第2象限)ですが、これは上の図によると「実質重視」かつ「読み重視」の学び方です。
この具体例としては、「評論・小説・詩などを読んで、著者が言おうとしていること、背景にある思想・人生観を理解しようとする」というものが考えられます。
また、「本文の特定箇所について、そこに込められた深い意味を、グループで話し合って深め合う」というものも考えられるでしょう。
また、(第3象限)ですが、これは上の図によると「形式重視」かつ「読み重視」の学び方です。
この具体例としては、「評論・小説・詩などを読んで、そこで用いられている対比や類比といった表現技法や、文法的事項について分析する」というものが考えられます。
また、「本文を短く切って、特定箇所の文法構造、修飾・被修飾関係について理解を深める」というものも考えられるでしょう。
最後に、(第4象限)ですが、これは上の図によると「形式重視」かつ「書き重視」の学び方です。
この具体例としては、「評論・小説・詩などを読んで、特定箇所についてそれはどういうことか、それはなぜか、ということについて論理的に記述する」というものが考えられます。
また、「テーマを決めたうえで(また、時には内容も指定したうえで)、作文や小論文をわかりやすく、論理的に書く」というものも考えられるでしょう。
4分類の考察
各4分類には、利点もそれぞれある一方である種の「限界」も存在します。
それぞれの象限のポイントについて、簡単に考察してみましょう。
第1象限:「実質重視」かつ「書き重視」の学び方について
自分にしか書けないような深い内容を、人の心を動かし伝わるように書く、というのは非常に魅力的に見えますし、実際魅力的です。
形式ばかりに固執していると、内容について自分で深く考えるということを忘れてしまいます。
そのため、関連知識について調べて吸収し、それを血肉として自分の表現を豊かにしていくというプロセスは国語学習において必須でしょう。
以上が利点ですが、他方で、限界も存在します。
それは、内容を伝えるには「形式」が必要だということです。
すなわち、言いたいことが頭の中に沢山あったとしても、それを人に伝えるためには伝わる書き方をしなければいけません。
しかし、「書き方のストック」がないと、内容を羅列するだけになり、それでは「何を言いたいのか」相手に理解してもらうことは困難です。
第2象限:「実質重視」かつ「読み重視」の学び方について
筆者の「言いたいこと」や「伝えたいこと」を、自分の人生経験や感性に照らして、理解しようとすることは疑いようもなく重要です。
形式ばかりに固執していると、筆者がその文章を書いている意図について深く考えることなく、ただの「試験勉強の対象」として文章を読むことになるでしょう。
そのため、文章を読むという体験を意義あるものにするためにも、文章の筆者と自分の価値観・感性とを対峙させながら読むことは国語学習において必須でしょう。
以上が利点ですが、他方で、限界も存在します。
それは、内容理解のためには「形式」も必要だということです。
いくら、自分の感性が豊かであったとしても、文章というのはある種の記号ですので、それを理解するためにはその「記号」のルールを把握することが必要です。
すなわち、文章のルール(文法、論理)について理解を深めることによって、はじめてその文章が「言いたいこと」や「伝えたいこと」が深く理解できる、ということです。
そのため、自分の感性・直観をあまりにあてにして国語を学んでいると、文章のジャンルや質によって内容理解のブレ幅が大きくなってしまいます。
第3象限:「形式重視」かつ「読み重視」の学び方について
本文読解において、内容を把握する前提として、「形式」について学ぶことはとても意義あることです。
例えば、いわゆる「接続表現」について学んだり、「対比」や「類比」、「言い換え」などといった論理関係について学ぶことで、より正確な読解ができるようになるでしょう。
そのため、文章を読んで味わう前に、その文章がどのような形式で書かれているのか、ということについて学んでおくことは、これからの国語学習ではより重要になるでしょう。
以上が利点ですが、他方で、限界も存在します。
それは、「形式」だけでは筆者の主張やその文章の主題について、自分の価値観や人生経験に照らし合わせて、深く考えるという力が育たないということです。
すなわち、「形式」とはあくまで「箱」ですから、その中に入れる内容についてはまた別の学びが必要だということです。
そのため、「形式」とか文章の一部分だけを精密にみているだけでは、全体が見えづらくなりかえって読解が困難になるということも起こりえます。
第4象限:「形式重視」かつ「書き重視」の学び方について
文章、段落あるいは一文を正確に書くためには、「形式」の理解が必要です。
わかりやすく書くための「型」を学ぶことによって、自分の意見をより印象的な方法で相手に伝えることができるでしょう。
そのため、内容を考えることも確かに重要であるものの、その前段階として「文章の書き方」のルールやパターンについて学んでおくことは、これからの国語学習ではより重要になるでしょう。
以上が利点ですが、他方で、限界も存在します。
それは、「形式」はあくまで自分の意見を整理して、整然とした文章にするための「箱」ですから、その箱の内容については別途用意する必要がある、ということです。
すなわち、いくら接続表現や論理構成について学んだとしても、ではそれを使って何を書いていこうか、何を読者に伝えようか、ということは得られないということです。
そのため、「形式」だけを学んでいる状態では読者を納得させるような説明や、読者の印象に残るエッセイや小説、詩などを書くことは難しいでしょう。
4つの象限の考察を踏まえたうえでの提言
以上、それぞれの象限について簡単に考察しました。
それぞれ、良い側面もあれば、それだけでは十分といえない側面もあります。
具体的には、「形式」を重視すると「実質」がおろそかになり、逆もまた然りということです。
また、「読み」と「書き」のバランスも重要であり、一方だけでは片方が育たないということもあるでしょう。
そのため、提言としては一言でいえば「バランス重視」ということになります。
それは言い換えれば「各人の習熟度を正確に理解したうえで、その人に適した要素を授業に組み込んでいくべきである」ということになるでしょう。
私は、国語ほど、教師に依る要素が大きい科目はないと考えているのですが、その背景はここにあるのです。
すなわち、教師には「実質や形式、読みや書きについて生徒にインプットする力」も確かに必要ですが、それ以上に「いま生徒さんが必要としている能力は何なのかということを生徒のアウトプットする情報をもとに推測して問題を特定する能力」が必要なのです。
他教科でも同じようなことは言えるのですが、国語の場合「なんとなくしている」要素が強くなりがちであるため、そこを意識的に行ってみるだけでも、その授業の成果・価値というのは、大きく向上すると思います。
私も最近は、国語を含め教科の指導では「教える」というよりも、生徒さんを「観察」して、問題を特定し、そのうえで必要な情報を教えるけれども基本的には「自分で気づいてもらう」というきっかけづくりに力を入れています。
例えば、国語でいえば、あらかじめ答えを考えてきてくれている生徒さんの場合には、その答えを出すまでの過程や考え方について、聞き取ったうえで、その生徒さんがどれくらいの精度の「読み」をしているのか、「書き」についてはどれくらい意識して書いているのか、ということを明らかにしていきます。
そのうえで、今の生徒さんの力で改善できそうなところは、情報を提供して知ってもらう、ヒントを出して気づいてもらう、などして徐々にレベルを上げて、限界が上がるように後押しします。
もちろん、すべてがスムーズにいくとは限りません。
上記は、ちゃんと「予習」をしてくれる生徒さんの場合であり、そうでない場合は読んでもらうのに時間を消費しますし、また「予習」をしてくれている場合であっても、「予習」に投入できる(する)時間は生徒さんによって様々です。
また、国語では対話型学習(話し合い)が重要ですが、口数の多寡には個人差がありますから、それに応じて教師も接し方を変えて、なるべく多くを引き出すようなやり方が必要になります。
このように、国語は双方にとって結構「試行錯誤」の科目です。
ですから、「これをやれば必ず伸びる」という万人共通の正解はなく、むしろ「臨機応変に教え方や学び方を変えていく」という観察に基づいた個別的なアプローチが求められると思います。
まとめ
国語については、様々な「学び方」が混在していますが、重要なのは「自分の力を伸ばすのに役立つかどうか」です。
その判断は、必ずしも容易ではなく、ある程度の経験を積んだ教師でないと難しいこともあります。
ですから、動画や参考書に加えて、ちゃんと対話をしてくれて、自分の能力を引き出して磨いてくれる教師を探し求める必要があるでしょう。
「家庭教師の白井」も、上記考察を踏まえて、よりよい国語授業が提供できるように、まい進してまいります。