超主観的平安時代中期解説
はじめに
最近の記事では、主に私(呉市の家庭教師の白井)の近況を踏まえたコラムが多かったように感じています。
確かに、それらの記事もタイムリーな話題であるため、需要はあると思っているのですが、今回はそういう直近の需要とは離れた記事を書こうと思います。
今回のテーマは、ずばり「平安時代」についての現時点での私の理解や知識をまとめるということです。
そのため、普段と較べてボリューム的にも内容的にも違ってくると思いますので、その点はご了承いただければ幸いです。
なお、これを読めば日本史の平安期についての理解や、古典文学の理解が多少深まるかもしれませんが、詳細な部分では誤りがあるかもしれませんので、そういう点はご一報ください。
平安時代とは?
平安時代は、歴史区分的に言えば「奈良時代と鎌倉時代の間の時代」だといえます。
西暦で言えば、桓武天皇が平安京に遷都した794年から、鎌倉幕府が成立した(といえる)1192年くらいまでを指しています。
その中でも、平安中期とよばれる西暦1000年前後は、古典を学ぶ上では非常に重要な時期といえ、有名な古典作品が多数執筆されました。
※天皇で言えば、一条天皇(986-1011)の時代であり、また藤原氏でいえば藤原道長の時代(の前後)ともいえます。
例えば、源氏物語(紫式部)や枕草子(清少納言)などが著名ですが、それ以外にも紫式部日記(紫式部)や和泉式部日記(和泉式部?)や更級日記(菅原孝標の娘)などの有名作品も平安中期に著されました。
平安時代の基礎知識
平安時代、とりわけ平安中期は天皇と貴族の時代だといえます。
貴族の中では、とりわけ藤原氏が権力の中枢に進出し、またそれが固定化された時代でもあります。
また、平安時代といえば「摂関政治」が行われたということでも有名であり、その仕組みを教科書的に記せば、「娘を天皇のキサキとし、生まれた(男の)子を天皇にしたうえで、天皇の幼少時は摂政、成人したら関白になる」というものです。
※ちなみに、摂政と関白はよく一緒くたにされますが、権限がより網羅的で強大なのは摂政のほうであり、天皇の代理人として天皇の権力をふるうことができます。関白の場合は、天皇の意思決定も尊重されることから、天皇の補佐的な役割がより強調されます。
より具体的には・・
平安時代は藤原氏の時代ですが、実は藤原氏に生まれたからと言って成功や頂点が約束されているわけではありませんでした。
藤原氏の中でも出世できる家と、そうでない家に分かれており、また平安時代中期には「頂上決戦」ともいえるような藤原氏同士での紛争もありました。
なお、あまり知られていないかもしれませんが、源氏物語作者である紫式部も藤原氏の家系でした。
しかしながら、紫式部の藤原の家系は、彼女の祖父の代までは出世コースを歩んでいたようですが、それよりも後の代になると、地方貴族(受領)の側面が強くなりました。
また、いわゆる三蹟の1人として有名な藤原行成もまた藤原氏ですが、彼もまた政治権力の頂点(摂関家)へのコースが閉ざされていた藤原氏といえます。
更に詳しく
以下は、非常にマニアックな情報であり、受験にはそこまで活きないかもしれませんが重要なので記しておきます。
平安時代では、父親の身分だけではなく、母親の身分も非常に重要でした。
要するに、近世近現代における父系の優先という考え方は平安時代にはないか、あったとしても主流の考えではありませんでした。
※その背景には、当時の結婚の形態や相続の形態なども影響していたと思われます。
例えば、「母親が違う」だけで運命が変わってしまった例としては、藤原道長の子女をご紹介します。
道長の正妻である倫子の子どもたちには、有名な彰子(上東門院)や頼道(平等院鳳凰堂で有名)などがいることはよく知られています。
一方で、道長には明子と呼ばれる妻もいましたが、彼女の子どもたちは貴族社会でいう中堅どまりでした。
このように、母親が違うと子の運命までが変わってしまうということは、例えば源氏物語における、光源氏(母は桐壺の更衣)とその兄の朱雀帝(母は弘徽殿の女御)などをみてもよくわかります。
他方で、平安時代では「実務能力」は度外視されていたのか、というと必ずしもそういうわけではありません。
例えば、先ほどの例で紹介した藤原行成は、一条天皇の信頼を得て、貴族社会の中で出世しています。
また、事件(スキャンダル)を起こすと、罰せられるというのは現代社会と同じでした。
例えば、藤原伊周と隆家は、貴族社会の頂点を争っておきながら、前の天皇に勘違いで矢を射たという事件の責任をとわれ、流罪になりました。
清少納言と紫式部の時代
清少納言と紫式部は、両方とも非常に有名な人物ですが、実は面識はなかった(可能性が高い)です。
なぜなら、彼女の主人であった藤原定子と藤原彰子は、同じタイミングで宮中にいたことがなかったからです。
そのため、定子方の女房(貴人に仕えた女性の当時の名称)であった清少納言と、彰子方の女房であった紫式部とが、同じ場にいる機会はなかったと考えられます。
また、定子と彰子がそれぞれスポットライトを浴びた時期も異なります。
定子のほうが先に中宮になり、その後複雑な事情があって、彰子が中宮になり(定子は皇后に呼称変更)ました。
さらに、定子のほうが彰子よりもかなり年上であり、それゆえに一条天皇からの見え方にも相当な差異があったと思われます。
※定子は一条天皇よりも年上であり、彰子はかなり年下です。
定子と彰子の関係
上記で、たとえ同じ藤原氏同士であっても、ライバル関係、対立関係にあることもありうる、と書きました。
それが最も当てはまるのが、定子と彰子の関係です。
もちろん、その背景にあるのが彼女の属する家の違いです。
定子の場合には、いわゆる中関白家と呼ばれる藤原道隆を頂点とする家に属していました。
道隆は、その先代にあたる藤原兼家の長男(母は正妻の時姫)であり、生まれからいっても、藤原氏の頂点を継承する資格がありました。
そのため、先に栄華を極めたのは定子のほうであり、その様子は枕草子に何度となく描かれているところです。
他方で、藤原道長は確かに兼家の息子でしたが、生まれた順番が遅かったため、若いころは兄である道隆の後塵を拝せざるを得ない環境でした。
※尤もその環境下での彼の負けん気の強さは、例えば大鏡や栄花物語(赤染衛門?)に描かれているところです。
しかしながら、のちに紹介する藤原氏同士の内紛を制した結果として、道長は権力の頂点を獲得することができたのです。
このように、定子の時代から彰子の時代へと移っていく背景には、道隆から道長への権力の交代があったというわけであり、当然のことながら主家(仕え先の家という意味)の運命の違いは、女房である清少納言と紫式部の運命や精神を大きく揺さぶりました。
紫式部日記を読むときの注意
『紫式部日記』は紫式部が書いた日記ですが、それは現代のいわゆる日記とは大きく異なり、そこには政治的な意図が大きく働いていることに注意しなければなりません。
すなわち、よく取り上げられる「清少納言批判」ですが、それは文面をそのまま鵜呑みにするのではなくて、上記のような定子と彰子、あるいは道隆(とその子孫)対道長という対立関係を意識したうえで、紫式部は彰子(道長)側の立場で執筆していることに注意が必要です。
※なお、清少納言批判は、後世の他の作品(例、『無名草子』)にも影響を与えています。
藤原定子について(前半)
枕草子において描かれている定子(中宮)は、非常に明るくて快活な性格でした。
当初は宮仕えに対して緊張していた、新人時代の清少納言の心をひきつけ、またのちには「香炉峰の雪」に代表される有名なコンビネーションも実現しています。
なお、枕草子を読むと、当時の女性が漢詩文について基礎知識を持っているということが、さも当たり前のように描かれているのですが、実際にはそうではありませんでした。
むしろ、そのような女性は、源氏物語で描かれている(手紙が全て漢文な女性に対する男性陣の評価)ように、煙たがられていたとすらいえます。
しかしながら、定子の家庭ではそのような当時の世間の常識とは、異なる空気が流れていました。
というのは、定子の母親である高階貴子は女官出身であり、そのため漢詩文の素養があったのです。
そのためもあり、定子は兄弟たちも含め漢文の教育を受けることができたというわけです。
また、当時の天皇であった一条天皇は非常に漢籍に興味がある勉強熱心な人でした。
そのため、漢詩文の素養のある定子と天皇の仲は非常に良好であり、そのことが中関白家の栄華をより確かなものにしたことは否定できません。
枕草子と定子の描写
枕草子を見ると、定子の栄華がずっと続いているような錯覚を覚えますが、これは意図的なものです。
実際には、定子の栄華はそれほど長くはなく、むしろ悲劇のヒロインとすらいえる人だったのですが、枕草子はそうした考えを生じさせる隙を与えません。
清少納言は、あえて自分自身が知っている限りの情報を駆使して、定子の栄華の場面のみに(ほとんど)集中して筆を振るったのです。
もちろん、そのことに対して違和感や反発を覚える向き(紫式部日記における清少納言批判など)もありましたが、それでも清少納言は定子に忠義を尽くし、彼女の魂を慰めたのです。
藤原定子について(後半)
定子の栄華に陰りが見えたのは、彼女の父親であった道隆が死去した時です。
道隆は生まれから言っても、年齢から言っても、絶対的な優先権を持っていましたが、彼の息子たちは必ずしもそうとは言えない立場にいました。
道隆の長男である伊周や、その弟である隆家などは貴族社会のリーダーになるには、力量不足なところも多く、そのためもあって、叔父にあたる道長との対立関係は日に日に深まっていきました。
詳細は省きますが、いわゆる「長徳の変」と呼ばれる政変によって、定子一門は凋落していきます。
その過程では、定子が衝動的に自身で髪を切って、出家してしまうという異常事態も発生し、これがのちの一条天皇との関係を複雑にします。
※当時、出家は離縁と同じ行為とみなされていました。
その後、いろいろなことがあり、一条天皇との間に一男二女をもうけることになりますが、その過程で道長一行からいじめともいえる、屈辱的な扱いを受けたり、貴族社会からも陰口の対象となったりするなど、様々な心労が重なります。
事実としては、定子は第三子(次女)を出産した際に、崩御します。
なお、枕草子は定子没落後あるいは崩御後に執筆されています。
その内容が、定子の全盛期に偏っていることや、その理由(の少なくとも大部分)が定子の鎮魂にあったということは、上述の通りです。
藤原彰子について(前半)
定子と比較した彰子のイメージはかなり異なります。
まず、彼女は生まれから言っても、育ちから言っても、典型的な箱入り娘でした。
彼女の父は藤原道長、母はその正妻であった源倫子であり、要するに藤原氏の嫡流と、天皇家の血を引く源氏の家系という、当時として考えられる最高の出自でした。
そのため、性格は極めて内向的かつ、自己主張も少ない女性として育てられました。
また、当初は漢詩文の素養ともほど遠く、屏風に書かれた文字すら読めないほどだったといわれています。
このことは、つまり漢詩文に造詣が深かった一条天皇との関係にも影響し、定子没落後においても、定子全盛期の知的で開放的な雰囲気を懐かしむ動きの原動力にもなりました。
藤原の彰子について(後半)
こうした状況に危機感を覚えたのは、父の道長でした。
彼は、彰子の周辺を定子時代に引けを取らないものにするために、知識人女房の大抜擢を行いました。
その最たる例が、源氏物語作者としてすでに評判を得ていた紫式部です。
※なお、紫式部以外には、歌人として名高い和泉式部や、赤染衛門なども抜擢されました。
また、彰子自身も夫である一条天皇に対して貢献したいという思いがあり、そうした様々な偶然が重なった影響で、紫式部から漢詩文の講義を受けることになりました。
※その模様は、紫式部日記絵巻にも取り上げられています。
なお、紫式部の漢詩文への教養の深さは、清少納言など当時のポップな漢詩文ブームとは一線を画するものであり、非常にアカデミックで格調の高いものでした。
具体的には、紫式部は定子に対して、知的な遊びとしての教養(豆知識)ではなく、望ましい政治の在り方を講義したといいます。
そうした、紫式部と定子の努力もあり、また道長側からの圧力もあり、様々な事柄が重なって、一条天皇との関係は徐々に変化していきます。
最終的に彰子は、一条天皇との間に二男を年子でもうけ、さらにのちには2人とも天皇(後一条天皇と後朱雀天皇)になって、道長(とその跡継ぎの頼道)の栄華をサポートしました。
上東門院(女院)としての彰子
のちに、上東門院という院号を授与され、女性としては最高の地位に到達した彰子ですが、その政治に対する真摯な姿勢と、時には自分の意見を曲げない胆力をみると、あたかも幼少期とは別人に見えます。
このことに関しては、語りたいことが多くあるのですが、一番の原因はやはり、道長の都合に振り回されてばかりいた自分自身を客観的・俯瞰的に認識した瞬間にあるのではないでしょうか。
例えば、一条天皇が崩御し、次の天皇として三条天皇の即位が決まり、さらに次の皇太子として、自身の息子(道長の孫)が決定的になるなどの、「歴史が動いた」瞬間において、道長は彰子そっちのけでことを進めていたのですが、この際に彰子は道長に対して不満を表明しています。
それまで、道長の従順な手ごまとして位置づいていたはずの彰子が、道長とは異なる立場から発言したことは、ある意味歴史のもう一つの事件における変化の瞬間だといえるかもしれません。
彰子のその後
彰子は最終的に、一条天皇の後の治世における、重要な観測者となり、またご意見番ともなりました。
一条天皇の後は、三条天皇を挟んで、後一条天皇、後朱雀天皇という、摂関政治の全盛期を印象付ける天皇の治世が続きますが、その後、後三条天皇による荘園整理によって摂関家の財政基盤は脆弱化し、さらにその次代の、白河天皇によって本格的に院政が開始されて、摂関家の権力は形骸化します。
この白河天皇の治世まで目撃したのが、彰子(上東門院)だったのです。
彰子は、確かに藤原氏を支えた女性でしたが、実際には天皇家の一員として、日本の中枢を陰ながら支えたのです。
総括:自分自身が平安人になる必要性
平安時代と今の時代を比べて、共通点もあることをとらえ、平安時代を現代の価値観で解釈しようという向きがありますが、私は反対側のアプローチも必要だと思います。
すなわち、1000年前と現代社会とではやはり価値観が違い、矛盾するところもあると思うのです。
例えば、現代社会においては国民全員が主権者であり主役である超多元的な時代ですが、平安時代においては、皇族とそのわきを固める貴族の極めて狭い人間関係において、政治力学が作用していました。
そうした事情の踏まえたうえで、枕草子や源氏物語といった古典作品を読む必要が、本来はあると思います。
すなわち、枕草子の描く定子像が欺瞞あるいは現実逃避的であることを指摘するのは簡単ですが、当時の社会情勢、社会常識、政治状況などを踏まえれば、一概に清少納言を批判することはできません。
平安時代の人々は、一般的に個として行動するのではなくて、家として行動しています。
この基本原理を除外して古典作品を読もうとする向きが、もしも(受験という必要性を超えて)あるとすれば、それは非常に危ういことではないかと思う次第です。
おまけ:スライド一覧
実は上記の文章は、かなり昔に作成した下記のスライドを文章化したものです。
スライドづくりも大変だった記憶がありますが、実際にオリジナルな文章として書き起こすのも相当な手間と時間がかかりました。
呉市の家庭教師の白井としては、ふだんはタイムリーな情報をアップデートしておりますが、ごくまれに、こうしたコラム的な記事も投稿しようと思っています。