問題の所在
国語ほど、いろいろな学習法、指導法が錯綜している教科はないと思います。
それは、国語という教科の性質上仕方ないことなのですが、それにしてもあちらこちらで「真の国語○○」が議論され、批判されている状況を見ると、それを行っている当人たちはともかく、そうした記事やら書籍をみて混乱している人がいるのは不憫です。
ただ、誤解しないでいただきたいのは、私はあちらが正しくて、こちらは誤っているというような考え方はなるべくしないようにしている、ということです。
もちろん、私にも自分の意見はありますし、明らかに誤っている言説もあるでしょうが、大概の意見には何かしらの真実が含まれているものです。
まずは、国語学習法についての言説を次の4パターンに分類してみましょう。
他にも分類法はあるでしょうが、私はこの分け方が最も区別の実益があると思います。
つまり、それぞれの対立点(違い)を明らかにしていくことで、それらの根底にある問題について浮き彫りにすることができるからです。
国語学習法の4つのパターンについて
まず、上記で分類した4つについて解説します。
1つ目は、「実感型かつ授業型」です。
つまり、国語では登場人物の心情に共感する力や、著者の主張のありかを探り当てる直観が重要であり、その力は授業によって身に着けさせることができる、という考え方です。
2つ目は、「実感型かつ自習型」です。
つまり、国語では共感力や、構造把握力が重要であるけれども、そうした力は他人から教えられることはできず、自分で学ぶことによって身に着けることができる、という考え方です。
3つ目は、「パターン型かつ授業型」です。
つまり、国語には、一定のパターン(型)があって、文法なり接続表現なりを授業で指導することによって、文章読解もおのずとできるようになる、という考え方です。
4つ目は、「パターン型かつ自習型」です。
つまり、国語には解法パターンというものがあって、そういうものは別に授業で扱わなくても、自習で身に着けることができる、あるいは自習でしか身に着けることはできない、という考え方です。
批判の目的
くどいようですが、私は上記4つのうち、例えば不等号を用いて、どれが良くてどれが悪いか、のような評価はしません。
それぞれの考え方には、それぞれの良さと危うさが秘められています。
それに、ある立場を選ぶということは、ある視点をあえて捨てることなので、別の立場から批判されても当然なのです。
したがって、それぞれの対立点を明らかにしつつ、それらを止揚(アウフヘーベン)することが大切です。
生徒さんの指導の時にも気を付けていることですが、重要なのは相手の欠点を探して悪口を言うことではなく、「どうすればもっと良くなるのか」というように前向きにとらえることだと思います。
「実感」対「パターン」
こちらは「学ぶ内容」による分類です。
実感とパターンは一見すると対義語のように思えます。
したがって、対立点をはっきりさせるためにも実感とパターンのそれぞれの良い点と悪い点を挙げてみましょう。
まず、実感の良い点は以下の点です。
- 未知の問題が出てきても、柔軟に対応することができる「実力」がつく。
- とりわけ、物語文では登場人物の心情に理解を示し、共感することができる。
他方、実感の悪い点は以下の点です。
- 明確な形を持っていないことが多いため、その時の調子や気分によって変動することがある。
- なんとなく考えるという癖がついてしまい、根拠を挙げて論理的に考えることが軽視されがちである。
また、パターンの良い点は以下の点です。
- 既知の問題だけでなく、未知の問題でも型を当てはめて解くというようにやり方が安定する。
- とりわけ、論説文では著者の主張について構造化して理解し、頭の中で単純化できる。
他方、パターンの悪い点は以下の点です。
- 明確な形を持っている分、未知の問題にどのように対応していいのか不明瞭な部分が残る。
- 定型的に考えるようになった分、行間を読んだり、心情に共感することを忘れてしまうかもしれない。
このように、実感とパターン、両方の長所短所は明らかです。
しかし、両者にはそれぞれ捨てがたい長所も持っています。
したがって、実感を磨きつつパターンも身に着けるという「いいとこどり」を狙いたくなりますよね。
私は、1つの提案としてですが、「1対1での指導」あるいは「グループ学習」を通じて、教える部分(知識)と、自分で考える部分とを区別する練習をすることが良いと考えています。
すなわち、授業にメリハリをつけるということでもあり、生徒が受け身になるべき部分と、受け身になるべきではない部分とを明確にしておくことで、国語の授業にありがちな、「眠くなる現象」を回避することもできるというわけです。
具体的には、「パターン」は覚えることですが、著者の論理展開や登場人物の心情などは、実際の文章を読むことによってしか身につかないことです。
パターンの記憶というインプットと、文章を読んで型を探って当てはめるというアウトプットは、一説によれば3:7の比率で行うとよいということから、授業の時間配分などに活かしてみようと思っています。
「授業」対「自習」
こちらは、「学ぶ姿勢」による分類です。
授業で学ぶことには、次のようなメリットがあります。
- わからなければ、すぐ質問することができる。疑問の解決が容易。
- 複数人授業の場合には、同僚から。1対1でも教師という他人から刺激を受けることができる。
一方で、次のようなデメリットもあるでしょう。
- わからないときに、自分で考えずに答えを聞くという受け身の姿勢になるかもしれない。
- 周りにいる他人とのレベル差が大きい場合、そもそもモチベーションにつながらないかもしれない。
また、自習で学ぶことによって次のようなメリットがあります。
- わからなくても、自分で調べ考える癖がつく。国語において、自力で考えることは大切である。
- 結局のところ、感性にしろパターンにしろ、他人から学ぶことはできず、自分の経験を蓄積させることが重要である。
一方で、次のようなデメリットもあるでしょう。
- わからないときに、頼れる先生(他人)がいないことは、致命的。投げ出す原因にもなる。
- 無意味に経験を蓄積させても、そこから一歩発展させていけるかどうかには、個人差が大きい。
と、このように一長一短あります。
但し、授業型では本人の自発性を引き出せればおおむね問題なく、自習型では何らかの指針となるものを示せれば、長所が生きてくることもわかりました。
つまり、目指すべきは「本人の自発性を引き出しつつ、放任主義に偏ることなく、指針を示しながら指導していくこと」にあります。
ここで、参考になるのは『奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち』という書籍です。
この書籍では、灘校の国語教師でいらっしゃった橋本武氏の展開された授業について説明されているのですが、ある意味で国語指導の一つの理想形を示していると思いました。
というのは、『銀の匙』という書籍を非常にゆっくりと丁寧に読む(スローリーディング)のですが、それを通じて原著執筆の背景などをこれ以上ないほど楽しく深掘りしていくのです。
具体的な内容を読んでみると、「すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります」という先生の哲学に基づいていることがわかります。
但し、先ほど申し上げました「自発性を引き出しつつ、適切に導く」というのは、容易なことではありません。
間違いなく、教師を選ぶ、非常に高等な技術です。
したがって、私は同じような哲学に依拠している(と勝手に思っている)次のような指導形が再現性が高いのではないでしょうか。
すなわち、以前紹介したこともある”Schip”というサイトの一項目である「アクティブラーニング型国語学習メソッド「採点演習」のご紹介」というページです。
この「採点演習」では、そもそもの採点基準について意見を出し合って、実際の答案を採点してみよう、というものです。
採点者の目線を体験できるという効果面だけではなくて、教師側にとっても何をすればいいのかある程度決まっていてわかりやすい、という利点があります。
もちろん、理想は自分しかできない授業を展開することですが、その理想達成のための下敷きとして上記のような型を学ぶことは決して遠回りではないと思っています。
総括
このように、国語についてよくある議論について整理してみました。
それによって得られたことは、次の2点です。
- 国語では覚えるべきことと、その場で考えることとを明確に区別するべきである。
- 国語では自発性を引き出しつつ、適切に導いていくことが必要である。
より具体的には、以下のようになります。
- 国語読解の型の指導と、文章読解の指導の比率は3:7がよい。
- 採点演習を通じて、自分と異なる立場の思考を学ぶのが良い。
もちろん、ここでお示ししたことも、私自身の「実感」なり、一つの「型」にすぎません。
しかし、この2つのジレンマから抜け出すには、まず状況を把握し、現在地点を知ることにあり、私としてはこの文章でご説明したことを踏まえて、自分なりの理想の授業を探求していこうと思っています。