国語(現代文)における論理と読解

はじめに

以前、国語指導については「国語力の議論がわかりづらい背景」という記事を書きました。

この記事では、「自習 vs 授業」「実感 vs パターン」という縦と横の軸をもとに国語指導における議論を(私なりに)整理してみたのですが、ここで述べていることはおよそ今も思っていることです。

 

しかし、考えてみればそれ以来まとまったものを書いていないことに気が付きました。

最近、国語指導についていろいろ試行錯誤して、その中でいくらか進展(変化)もあったので、この機会に少し視点を変えて、よりダイレクトに書いてみようと思います。

最近の「論理ブーム?」

昔のことはよく知らないのですが、最近は本当に「論理」を教える本や指導法が増えた(多い)なぁと感じます。

要するに、国語は接続詞や主語や述語、目的語などの文法論理が重要であり、これらを覚えて使いこなせるようになれば、国語は簡単である、というような考え方です。

 

例えば、「しかし」という逆接の接続語が出たら、それまでと違う内容が書いてあるので、対比関係に注意すべきであるとか、「例えば」という接続語が出たら、そのあとに具体例が来るから、一般論と具体例の間の言い換えを重視すべきである、というような、国語関係の書籍を読んだことのある人であれば、どこかで聞いたことがあるはずです。

※逆に初耳の人は、「はっ」とさせられるかもしれません。

 

また、実際に国語のつかみどころのなさを感じている人が、この類の論理系問題集(参考書)を購入して、取り組んでみたところ、結果が出たという場合もあるでしょう。

「論理」と「共感」の限界

他方で、国語の勉強においては、「感性(センス)」だとか「共感力」とか「想像力」が重要だと考える人もいます。

例えば、小説や随筆を読解するには、単に言葉の辞書的な意味をとらえるだけでは不十分で、登場人物の置かれている状況や人生経験を想像し、共感することが重要になります。

小学生でいえば、ごんぎつねにおける「ごん」のつぐないの気持ちや、中学生でいう重松清『卒業ホームラン』における、活躍できないことがわかっているのに野球に打ち込む少年の気持ち、あるいは高校生でいう夏目漱石『こころ』においてなぜKが死んでしまったのかという理由、これらは論理だけで読解するのは非常に困難だと思います。

 

ただ、他方で論理的な思考の整理力なしに丸山眞男の「であることとすること」や鷲田清一の一連の文章を読解するのは、困難だとも思います。

※ちなみに、上記の言う「論理」はおそらく接続語や主語述語とかいった「論理」とはカテゴリーが違うとみています。

 

そもそも、国語教育のゴールが何なのかについて、コンセンサスがない以上、あまり学習者(生徒の方々)が「国語は『論理』なのか『共感』なのか」みたいな巨大な問題に立ち向かっても、前後不覚に陥るだけですので、個人的にはバランスよくいいとこどりをするのがよいでしょう。

答えがないのが答え

個人的な考え方になりますが、国語の教え方において、いろいろな議論が錯綜している現状こそが、国語の全体像を示している(逆説的ですが)と思います。

つまり、国語の教え方で「論理主義」と「共感主義」がそれぞれの欠点を指摘していますが、それぞれ言っていることには分があり、学ぶ側、教える側としては、2つの対立点まで体験のレベルで理解することが必要なのでは、ということです。

 

やや抽象的な言い方をすれば、身体的あるいは精神的な体験を言語化できるようになることが(私の考える)国語教育のゴールであって、そのためには、まず「言葉にならない(できない)」具体的な体験を経由することが必要ではないかな、と。

例えば、「遊び」というものは、しばしば「勉強」に劣るものとしてとらえられがちですが、私はそういう経験がなければ、「勉強って楽しい!(面白い!)」という実感は得られないのではないかとみており、とりわけ子どものうちは、合理的な目的によらない、遊びの体験をしておくことが重要ではないかと考えています。

私が気を付けていること

私は、たまに問題の解き方や答えとは(直接には)関係ないことを言うのですが、そういう「寄り道」こそが実は、自分が学んでいるもの(教えているもの)が面白いと思えるようになるきっかけではないかとも思います(自己弁護ですが)。

 

そもそも、教師が国語が得意であっても、実際に問題や受験に立ち向かうのは生徒さん自身です。

ですから、教師としてはなるべく生徒に「自分で考える頭(自走力)」を与えなくてはなりません。

 

教師が、再現性の低い後付け的な説明に終始していては、生徒の思考を妨害し、生徒が自分で考える頭を持つ邪魔をしてしまうことにもなりかねません。

 

したがって、私はなるべく生徒さんに寄り添いつつ、「思考を遮断しない」語り方をするように気を付けています。

総括

このように長々と(そして偉そうに)書きましたが、私自身、実は毎日試行錯誤中です。

というよりも、壁にぶち当たっては向きを修正し、そしてまた別の問題と向き合うような毎日です。

 

ただ、上にも書いたように国語指導においては、生徒さんの状態に応じて「正解の教え方」が異なるので、教える側としてはむしろ試行錯誤しなくてはならない、とすら思っています。

※逆に明らかに「これをしたら伸びなくなる」というようなNG集はあります。

 

要するに「これだけやっておけば、絶対に(誰でも)大丈夫」みたいなものが存在しないため、私はおそらくこの仕事を続けているかぎり、ずっと国語の指導法について考え続けることになるでしょう。

 

しかしながら、不確実性に向き合いつつ、自分なりの定点をもって個性と向き合うというのは、そんなに苦痛ではないとも思っています。

 

むしろ、「答えがない」ことこそが国語指導のやりがいであり、だからこそ私は国語という科目に今でも魅力を感じ続けているのでしょう。