近代における「精神」と「身体」

まえおき

高校になると、さまざまな教科が大幅にレベルアップします。

ちゃんと準備をしていても苦労する人がいる中、何も構えずに受け止めているだけだと、ショックを受けるでしょう。

それは、現代文についても言えます。

今までは、「言いたいことはわかった」文章が、まったく理解できない難しさになっているのです。

 

ただ、現代文の扱う内容は非常に多岐にわたるので、今回はその一部である「身体論」(とその対極で意識されている「精神論」)について、書こうと思います。

精神・身体二元論

現代の文章では、これを反省する向きもあるようですが、それでもカウンターとして知っておかないといけないのは、「精神・身体二元論」です。

多くの近代の文章は、これを前提に書いているといっても過言ではなく、知らないと置いてけぼりにされる可能性が高いです。

 

簡単に言えば、人間は「精神(こころ)」と「身体(からだ)」の2つでできているという事です。

通常は、精神の方が身体よりも優位であり、精神が身体をコントロールしているという構図になっています。

 

例えば、机の上にある本を手に取るという動作を「精神・身体二元論」で説明すると、

「私の心が、身体(目など)に本を探してこいといい、身体が本がどこにあるのかという座標情報を取得して心に伝え、そして心はじゃあそこにある本を手に取れと手に命じて、手が動いて本を手に取る」

というような形になります。

 

非常にわかりやすい形だと思います(知っていればですが)。

そして、評論文ではこの構図を前提に、「他者の身体というのは、どのように現れるのか」とか「<顔>とは何か」とかいう近代的な論点について語られたり、逆に現代的な目線から「近代の身体論では見えてこなかったもの」「従来型の精神・身体二元論のあやまりと反省」について論じられたりするわけです。

総括

現代文は暗記ではないという人もいますが、しかし一方で先人が積み上げてきた歴史を尊重しなくてはならない科目でもあると思います。

その意味では、最低限高校生でも押さえておくべきことは押さえておいた方が、未来の知識人を育てるという意味でも健全ではないでしょうか。