歴史を学ぶ意義とは?

まえおき

たまに入試問題で問われそうな話題として、「歴史を学ぶ意義」は何か?というものがあります。

※よく似た話題として「古典を学ぶ意義」があります。

しかし、私個人の考えとしては、意義というものを考えながら学ぶということは、あまり現実的ではないということです。

 

歴史に限った話ではありませんが、「教育」という機会に偶然(受ける側として、あるいは教える側として)いることで、得るものも結構あります。

そうして、得たものについて後々、その得たものはどのような意味があるのか、そのように振り返るときに「意義」が登場するのだと思います。

 

このような理由から、おそらく「歴史を学ぶ意義」について考えることが、そのまま歴史の学習や成績に貢献するとは思いません。

しかし、こうした「どうでもよい(ような)こと」について自分で考えようとすることこそが、実は真の学ぶ意義だとも思っています。

立場による相違

何事に価値を認め、逆に何には認めないのか、によって「歴史を学ぶ意義」に対する答えはだいぶ違ったものになるでしょう。

例えば、最も簡単な答えは「我が国に対する愛着(愛国心)を育むこと」にあるでしょう。

しかし、実際教えた結果、愛国心を持ってもらえるのかということは、わかりません。

確かに、愛国心を持ってもらえるような教え方をするとよいというのはあるでしょうが、受け取る側の心理にも介入するのは行き過ぎな気がします。

 

では、逆に誰か歴史上の人物や出来事について教えた結果、ある人物なり出来事なりについて偶然好きになってもらう、というのはどうでしょうか。

そして、その人物や出来事について好きになってもらった結果、そこから人生訓なり教訓なりを学んでもらう、というものです。

「私は彼(彼女)のようになりたい」とか「この出来事は繰り返してはならない」とか、そういう風に思ってもらうことを目的とします。

しかし、これもやはり受容の仕方の問題があり、好きになる人もいれば逆にそうはならなかった人も出てくるでしょう。

また、歴史の勉強が趣味の延長と区別がつかなくなる、という別の問題も生じてきます。

なぜ、学校でそうした趣味を半ば強制的に学ばなければならないのか、ということですね。

 

さらに、別の考えとして歴史を学ぶことを通じて、ある種の脳トレになるという考え方もあります。

つまり、記憶力を高めるため、頭に負荷をかけようというものですね。

記憶力だけでなく、出来事を縦の時間的つながりと、横の空間的拡がりを踏まえて考えられるようになることで、思考力も鍛えられるでしょう。

実際、入試問題は難しい学校になればなるほど、そうした記憶力を前提に思考力を問うものが多くなってきます。

しかし、それではなぜ、その記憶力なり思考力を問うものが「歴史」でなければならないのか、という必然性に欠けてしまいます。

記憶力なら、円周率の暗記でもよいですし、思考力なら数学の証明問題でもよいでしょう。

自分で考えることの難しさ

このように、歴史を学ぶ意義というものは、価値観の問題とも絡み、なかなか1つには決めることができません。

そもそも、歴史を学ぶ意義に対する立場は、上にあげた3つだけとは限りません。

もし仮にすべてを挙げることができたとしても、1つに絞ることはかなり困難かと思います。

 

ただ、私は上記3つの考え方が典型的な3つの極として挙げるに足りるとは見ています。

なぜならば、それぞれの価値観の純度が高いからです。

実際の主張は、それぞれの価値観の混合物になるでしょうが、いずれの場合も上記3点の主張の要素は少なからず含まれるのではないでしょうか。

 

ただ、くどいようですが、その割合を決めるのは各人の価値観です。

各人がどのような経験を今までしてきたのか、そのうえでどのような環境や考えを持っているのか、ということによって答えは変動するものと思われます。

 

以上を踏まえて、最後に私の考えを紹介して終わりましょう。

私の考える歴史を学ぶ意義

私は最初にあげた3つの要素はいずれも汲むべきところがあり、どれも採用したい価値があると思っています。

そのうえで、歴史をあえて学ぶ意義というのは「自分の頭で世界を見るきっかけを得る」ことではないでしょうか。

 

例えば戦前の教科書では、神話時代の話も出てきましたが、だれでもそれをそのまま信じていたわけではありませんでした。

例えばいわゆる「天孫降臨神話」に関しても、先生が「実は違う説もあるんだけどな」と独り言を言った(のを聞いた)という話もあります。

ここで重要なのは、「天孫降臨神話」を信じるかどうか、あるいは正しいかどうかというよりはむしろ、そういう選択肢なり可能性の存在に気付くということです。

そのうえで、そうした情報を伝える存在を自覚し、賛成するか反対するかを自分で考えるのです。

 

上記では戦前の話を挙げましたので今度は戦後の話を挙げますと、例えば私の記憶では「日本は過去の戦争で大きな誤りを犯した、それを繰り返してはならない」というものを習いました。

しかし、それは「事実」というよりは「意見(主張)」になりますので、それをそのまま受け取るかどうかについては、1ステップ必要でしょう。

また、仮に信じたり信じなかったりするにせよ、自分の意見を根拠を持って言えるようになる必要があります。

そこでもやはり、「自分はどう考えるのか」という主体性や「自分が考えることを相手にわかりやすくどう伝えるのか」という意思疎通の問題が出てきます。

こうした、主体性をもって意思疎通し、かつ自分の言論に責任を持つ、ということを学ぶ1つのきっかけが歴史ではないかと思う次第です。

 

ただ、そのように独立した「個」を育むだけが歴史ではありません。

歴史を学ぶにあたり、共感できる人物なり出来事なりが出てくるでしょう。

その人の半生を詳しく調べていくと、決して一義的に割り切れない多面性が浮かび上がってきます。

どんなに立派な人に見えても、その背景には複雑な悩みや葛藤があり、明確な答えなど実はないのではないのかという気にさせられます。

このように、歴史を学ぶことによって独立した「個」を確立できるというだけではなく、他者を理解し寄り添える「共感力」も身につくのです。

 

もちろん、「脳トレ」の要素も軽視すべきではないとみています。

というのは、人間というのは精神論だけではどうにもならず、頭という物理的な思考・記憶装置に頼っている側面があります。

それを鍛えるというのは、自分にできることを増やし、健康に思考できる時間を延ばすことにつながります。

 

以上のように、歴史を学ぶ意義について考えていたら、ほかの教科でもいえそうなことに行き着いてしまいました。

しかし、歴史に固有なこととしては、歴史とは人やその歩みについてもっとも直接的、大局的に触れられるものだということです。

ある意味、AI時代に最もふさわしい、人間らしい学問が「歴史」なのかもしれませんね。

 

それゆえに、思惑も錯綜しますが、それに絡めとられることなく、自分なりの視座を獲得したいものです。

総括

以上のように、歴史に対する私の態度を表明してみました。

今後変わる可能性もあるかもしれませんが、ただ基本的な部分は変わらない気もします。

 

また、ここで書いたことは直接学校の成績には結びつかないとは思います。

しかし、学校で学んだことが将来どのように働くのかはわからないことも多いものです。

時には、吸収できるだけ吸収してから、後々振り返って再評価してみる、というような「思い切り」も大事なのが「歴史」ではないでしょうか。