現代文における比喩の考え方

高校現代文を初めて読む高校1年生は、おそらく面食らったことでしょう。

今まで、教科書本文というのは一応「ふむふむ」と理解できる対象であったのに対し、高校の現代文の内容は全く意味が分からない、読んでいて言葉が単語レベルでわからない、という事態が発生するのです。

とりわけ、哲学系、社会科学系の文章ではその傾向が強いことでしょう。

これらは、人間の認識について分析を試みるから、どうしても用語が抽象的になるのです。

「顔」という一語をとっても

例えば、哲学系の文章で「顔」という用語が使われているとしましょう。

この言葉は、おそらく文章の中で複数の意味を持つはずです。

つまり、物理的な顔面としての「顔」という意味だけならまだ単純ですが、「彼はわが社の顔だ」というような、要するに象徴(シンボル)のような意味で「顔」という言葉が使われると、頭がこんがらかってきます。

※私の勝手な独断と偏見ですが、一部のわかりづらい文章では、あえてわかりやすく用語を変えるのではなくて、同じ用語を異なる意味で用いて読者を混乱させているような気がします。

また、そこからさらに「顔」という言葉の意味を拡張して、「見た人にインパクトを与えるもの」という意味にしたらどうでしょうか。

そうなると、さらに「顔」という意味が文字通り「ゲシュタルト崩壊」するでしょう。

どうやって立ち向かうか

まず、読者としては次のことを知らなければなりません。

それは、「言葉の意味は定義次第でいくらでも変わる」ということです。

また、それ加えて「事実は一つだが、解釈は無限大」という事も知っておくとよいかもしれません。

 

すなわち、(異論はあるでしょうが)人は、事実をみて、それを解釈し、言葉で表現します。

元の事実は1つでも、解釈が無限大である以上、結果言葉で表現されたものの種類も非常に多くなってしまうのです。

 

「顔」というものの例をとっても、物理的な存在としての「顔」があったとして、それにどんな解釈を加えて、どう表現するか、ということは人によって全然違います。

ですから、哲学者はそうした現実解釈の多様性を読者に分かってもらうために、あえて「顔」という言葉を複数の意味で使用します。

 

読者としては、ある言葉が一つの文章でフィーチャーされていて、しかも複数の意味で使用されているというときには、その言葉がキーワードであると感じたうえで、その言葉が現実の多様性を気づかせてくれる切り口になっているということを認識する必要があるでしょう。

現代文常識?

現代文は、このようにいままでの中学国語とは異なる心構えが必要になる科目です。

したがって、高校生(特に1年生)は、現代文を読む上での常識をどこかで得る必要があります。

 

しかし、ここで一応書いては見たものの、「現代文常識」なるものは、いろいろな文章を自分で読んで、そして解答を書き、添削してもらうということを繰り返すことでしか、身につかないと思います。

ただ、何も示さないのは意地悪すぎるので、とりわけ重要だと思っているものを列挙しておきます。

 

  • 近代と前近代はよく対比される。最近では、前近代にあって近代で失われたものを再評価するような文章も多い。
  • 現実世界の解釈は、(上で書いたように)多様であって、もととする現実が1つであっても、人や状況によってその意味付けは全く異なる、というようなことを具体的、あるいは抽象的に書いた文章がある。
  • 「死」や「他者」というような、「自己」によって避けられないものについては、頻繁に考察される。答えがない問題であるだけに、その掘り下げ方も論者によって結構違うので、丁寧に論理を追っていく必要がある。

 

ほかにもあるとは思いますが、評論文を読む上で、上記3点について予備知識があるだけでも、だいぶ読みやすくなるのではないでしょうか。

 

小説や詩についても、言いたいことはありますが、今回はこれくらいで筆をおきたいと思います。