思い出発掘
家の中を掃除していたら、懐かしいノートが出てきました。
表紙はすでにありません。ただ、中身から大学の時の日本法制史のノートだという事はわかりました。
ノートを見返してみた感想
「懐かしいなぁ」以外の感想としては、「なるべく文章でノートを取ろうとしていた」ことが窺えました。
確か、「未来の(講義の内容を)忘れてしまった自分に理解させるつもりで書こう」と思って、このようなノートの取り方にしたのではないかと思います。
そういわれてみれば、箇条書きの整然としたノートよりも、文章になっているノートのほうが(それは作るのに手間がかかるでしょうが)読んでいて頭に入ってくるような気がします。
というよりも、整然としたノートといってもそれは教科書の劣化コピーにすぎません。
「ノートを見返すくらいなら、教科書を見たほうが早くないか?」というようなノートをとることに意味はないのではないでしょうか。
教科書とは違う路線で、つまり自分にとって最も最適化されたノートだからこそ、取る意味があります。
ノートを取る意味
もう1つ思い出したので、書きます。
ノートには大きく分けて2つの役割があると考えています。
すなわち、ノートは①取るときと、②見返すとき、という2つの場面において機能します。
②の見返す側面はしばしばいわれますが、実は②だけではないのです。
むしろ①のノートをとるときにおいて、自分が現時点でどの水準の理解をしているかを確かめる、という機能も重要です。
要するに、黒板に書いてあることしか書けなかったり、箇条書きや単語の羅列しか書けなかったりするのであれば、自分の理解はその程度であることを示しているのです。
逆に授業のスピードについていきつつ、文章で授業内容をノートに取るのはなかなか大変です。
しかし、それができるという事は、根拠のある自信につながりますし、仮にできなくても「やろうと思う」だけでも、授業の受け方が主体的になるので意味があると思います。
危ない自己目的化
ノートをとること自体が目的になることはあり得ないと思います。
きれいなノートをとることに夢中になって、そのノートを後で見返さないとか、そこまでいかなくても「わかった気になる」だけのノートには意味がありません。
繰り返しになりますが、ノートをとる目的は自分の学力を向上させるためです。
自分で自分の学力を向上させるには、まず自分の理解度を可視化する必要があります。
自分の理解度を可視化するのに、頭の中のことを文章化できるかどうかを問うことは非常に有用です。
理解している気持になっていても、実際に文章で表現しようとすると、意外にできないものです。
おすすめのノートの取り方
時間は無限にあるわけでもありませんし、いきなり授業時間内に文章でノートをとることは非常に困難です。
したがって、次の方法をご提案します。
それは、授業の後にその授業の内容を100字くらいで説明してみることです。
説明の仕方は、ノートのすみや原稿用紙に書いてもよいし、時間がない場合は喋るだけや心の中の声だけでもよいでしょう。
また、授業中どこが「文章にしてまとめる価値があるのか」を考えて、その部分だけをとりあえず文章にまとめてみる、というのもよいかもしれません。
おわりに
いずれにしても、ノートは自分のために取るのであって、誰かほかの人を満足させるために取るものではありません。
その意味では、今回発掘した大学時代のノートは書いてあること以外にもいろいろなことを思い出させてくれました。
また、保管しておこうと思います。